いつも笑顔のために

いつも笑顔のために

皆様お世話になっております。STAY GREEN FUKAIの井岡と申します。

今日は僕が大阪に出てきた時のお話。

私の家族は全員教師。祖父も祖母も父も母も兄もみんな教師。 私も高校生まではやりたいことも特になく、なんとなく教師になれたら良いなと思っていました。

しかし、高校3年生の頃、祖父が脳梗塞から認知症を発症。 病床の祖父に何度も面会に行きましたが、進行した認知症の影響で、家族を認識できているのかもわからない状態になりました。

私は親戚を含めて一番下のちびっ子だった。

兄や親戚は年も上で、いつも遊んでくれたのは祖父だった。

虫の取り方や薪風呂の沸かし方を教えてくれたのも祖父でした。

年少の僕は何をしても兄たちのように上手くできず、よく泣いていました。

そんな時に祖父は何をしても誉めてくれました。

祖父はよく「おじいちゃんと遊びに来てくれたんか」と言って、小さい僕を遊びに連れて行ってくれました。

そんな祖父が病床に伏し、家族も認識できなくなってしまった。

当時は認知症ではなく「痴呆」や「ボケてきた」と言って社会でもあまり認識されていない時代でした。

あんなに遊んでくれた祖父に僕は何もしてあげられない。それが悔しかった。

もう点滴しかできない状態になった時、祖父に会いに行くと、不意に祖父の目が開いた。 私の手を握りながら笑ったように見えた。

祖母が「いつもね、あれ見てたんよ、おじいさん」と、僕が作った折り鶴と「早く良くなってねおじいちゃん」と書いた僕のメッセージを毎日祖父は見ていたと教えてくれた。

祖母「なんかね、しげちゃん(僕)のことだけはわかるみたい」

その数日後、容体は急変し祖父は天国へ旅立った。

私に残ったのは、祖父の優しさと、何もできない自分への後悔だった。

僕は初めて自分でやりたいことが見つかった。やらないといけないと思った。

介護がしたい、認知症の人を支えたい!笑顔にしたい。

認知症でも会話ができなくても離れていても、気持ちが繋がっていれば通じ合える。

そんな思いで、すぐに幼馴染のお母さんが事務管理をされているデイサービスでボランティアとして働き始めた。

教師一家に生まれた僕は、帰りの遅い両親の代わりに、祖父や祖母と一緒に暮らしていた。 それもあってか、高齢者の皆さんとお話をしたりお世話をすることは何も苦じゃなかった。むしろ楽しかった。

そして専門的に認知症と介護を学ぶために、高校を卒業してすぐ大阪の河内国分というところにある関西福祉科学大学に進学した。

そして堺市で介護士として14年間、認知症高齢者を支える人材育成をしながら介護士として勤務した。

じいちゃん、今はいろいろあってボクシングのトレーナーをしているよ。

あの時じいちゃんを笑顔にしたいって思ったように、今もみんなの笑顔のために。

「いつも誰かの笑顔のために」多分それが自分らしくいれて、それが自分の幸せになるから。

しっぽりしたお話をしてしまい申し訳ございません。

僕が皆様を笑顔にするトレーナーになりたいと思った理由は、きっとじいちゃんとの思い出があったから。

自分の人生に関わってくださった皆様が、いつもたくさんの笑顔で満たされますよう、今日も明日も、全力でサポートしていきます。

まだまだ未熟でご迷惑をおかけするかと思いますが、これからもよろしくお願いいたします。

それでは本日はこの辺で。最後までお読み頂きありがとうございました。

ブログに戻る